「高山さん、命がけの地雷撤去活動をどうして、そこまでやれるのですか?」と、よく聞かれることがあります。私は命がけでやっているという意識は全くありません。
地雷撤去という一般的には特殊な活動なので、そのように見られているのかなと思いますが、本人は自衛官時代に取得した技術を生かすことができればいいと普通に思ったのです。
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カンボジアPKOに参加して、カンボジアという国が忘れられなくなり、もう一度そこで思いっきり活動したいと思ったのです。カンボジアPKOの時も危険なことは沢山ありましたが、あの時、国際社会から日本が置かれた立場は、大変に危ういものでした。「日本は自国のことだけ考えて国際社会の仲間には入らないのか」というギリギリの選択を迫られた立場でした。
国論を二分して激論が交わされ成立したPKO法の下で最初に600名の自衛官がカンボジア現地に赴きました。そこではまだまだ実際には戦闘は続いていたので、夜ジープで移動していた時など、政府軍の警備兵に停止をさせられ、銃を向けて尋問されることもよくありました。それでも怖いと思ったことがなかったのは、「命を捧げても十分すぎる遣り甲斐感」があったからです。
「この最初のPKO活動を成功させなければ、今後、日本が国際社会の一員としてPKOに参加できなくなるだろう」そうなれば国際社会は日本を信頼しなくなる、のけ者にされるだろうと思いました。そういう意味で「このカンボジアPKOを成功させたい」という思いから、「命は惜しくない」と思ったので怖くなかったのです。
カンボジアPKOの任務が終わって帰国する時、「もう一度、ここに戻ってこよう」と思ったのも「命よりも大切なものがある」それは、「後から来る人たち」だということが、はっきり解かったのです。そのために命を使いたいと心の底から思ったのです。
今の活動を始めてからも、「もう終わった」と思うようなことが何回もありましたが、多くのみなさんから支えられ、今も生かされています。 (写真は1992年11月頃これから隊員600名が起居する駐屯地を作る工事に着手した頃)